浅草で生まれて、この年まで一生懸命お笑いをやってきたので、最後に浅草でほめられたのはうれしい (2009/09 したまちコメディ映画祭)
明治座でやるときいつも思うの。今年明治座でやるお芝居の中で、一番笑いが多い芝居を作るぞ!って。
笑いって普通のお芝居を作るよりエネルギーが何倍も必要。しかも僕のは初日が開いてから楽日まで
ずっと変わっていくから、永遠に稽古が続くんだよね。僕が目指してるのは演者がおもしろくて笑わすって
いう舞台。
三重県にブロードウェイを作りたいの。三重辺りにあったら、九州や四国の人は東京まで来なくても
おもしろいのが見られる。昔、浅草ロック通りの人波は忘れられない景色。あれを再現させたい。
僕は自分の夢をみんなに叫びまくる。それは一人ではなかなかできないことばかりだから。ことあるごとに
口にしていると応援してくれる人が現われて、それが大きな雪だるまになって転がりだすんだよ。
「笑いは方程式だ!」「特別な事がおこらないストーリーが良いんだよ」「何回も読んでりゃ気づくんだよ」
「ストーリーを描くんじゃないんだ!人物の性格を描くんだ!」「舞台ではギャグじゃなく"お芝居"をやれ」
「芝居のなかから自然に生まれるアクションをやれ」「台本じゃなく今感じたことでつっこめ」
(2009/01「あらん はらん しらん」プログラム)
『振り』『ボケ』『ツッコミ』があって、笑いが起こる。笑いの波が起こっている間は、ボケ続けなければ いけない。ボケている間は、ツッコミ続けなければいけない。その波をずっと続けたら、大きな波がくる。 (2008/12/28 人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデンSP 勝俣州和の話)
子育てって大変って思っていら、それだけ子どもとの距離が大きくなる。子どもが父親は怖いもんだと
考えているのを感じたことがあってね。子どもに申し訳ないなぁと思ったんです。だから、僕は世間の
皆さんとはまったく逆のことを言ったの。『テレビを消して飯ばっかり食うんじゃないよ。ひとつのことしか
できない人間になるよ。テレビを見ながら、すきをみて、飯を食べなさい』って。子どもが怒られそうだと
思っているとき、逆のことを言ってあげると、子どもは信用してくれるんです。子育ては苦労じゃなくて
楽しいなって思わないといけない。『聞き分けのないどうしようもない子だからこそ、私の毎日は楽しい
んだ』と感じていなければ、子どもも卑屈に育つんです。
真剣に育てちゃうと何かあったときに腹が立つじゃない?いちばん効くのは、誉めることを探すこと。
子どもにとっていいお母さんって、お手本よりもむしろ子どもよりダメなことをやれることかな。
うちの奥さんは、僕が仕事を楽しくやってるのがいいって人ですよ。仲はよくないよね。でも、悪くはない。
僕は(奥さんを)自分のものって感じはずっとしてないです。普通の人より好きな人がいるって感じ。
(女性自身2008年3月4日号)
物心ういたときから、我が家にはいつも借金取りが来ていました。特に将来のことを考えてみたことはない。
ただ、家族が安心して暮らせる家が欲しかった。そして高校を卒業するとき、私は10年で自分の家を建てる
という目標を設定した。
そのためには普通の仕事では無理だろう。そこで私はコメディアンの世界に飛び込んだのです。
家を建てること。れは貧乏への仇討ち。私はいつも、こうした仮想の敵をつくってきたような気がします。
もちろんその敵は人であってはいけない。
(高校卒業から)ぴったり10年後の28歳の4月1日、私は自分の家を手に入れました。25坪の中古の建て売り
住宅。1300万円ほどの小さな家。一つの仇討ちをなし遂げたという充実感を味わったのを覚えています。
次に私の目の前に現れたのがテレビという大きな仇。当時のテレビ番組と言えば、何といってもドラマ。
一方でお笑い番組が放映されるのは昼間かゴールデンタイムのまえ 。要するにお笑いは市民権を得て
いなかったのです。お笑い芸人は俳優なんかよりも格下。映画スターなどは1本300万円もの高額のギャラが
もらえる。ドラマの俳優クラスで30万円。歌手がテレビで歌えば10万円を超える。コメディアンのギャラは
1本で3000円程度。
コメディアンとしての仇討ちが始まったのです。
お笑い番組として初めてゴールデンに進出。ドラマの裏に番組をぶつけました。そして、敵を追い越し、
視聴率が30%を超えた。そこで私は番組を降番した。テレビに対する仇討ちは果たせた。これ以上続ける意味を
見出せなかったのです。
(仇討ちをするくらいの)強い気持ちがなければ道はひらけないと私は思ってます。人間って夢をすぐに諦めて
しまうんです。あるいは夢をもつだけで満足してしまったりする。敵に打ち勝った瞬間、今度はその敵が恩人
に変わることがる。
私はいつも、人生を5つの要素に分けて考えます。身体、仕事、お金、家族、そして友達などの人間関係。
この5つのことが全部うまくいくことなんかない。また逆に全部がどん底になるともない。一つのものが突出
すると、必ず他のものに歪みがでてくる。
三十代で番組が成功したとき、仕事は絶好調でした。お金もどんどん入ってきた。でも、産まれたばかりの
我が子が入院生活を強いられていた。人生はトータルでチャラになるものだと、つくづく思ったものです。
だから、一度も新築の家を建てたことがありません。豪邸を建てて贅沢な暮らしをすると、身体を壊したり
仕事がうまくいかなくなったりする。何となくそんあふうに考えてしまうのです。
この五つのなかで、自分にとって何が一番なのか。そこに思いを寄せることが大切だと思います。
仕事がどん底のときもある。お金が入ってこないことだってある。だからといってそれは人生のどん底
じゃない。あとの四つに目を向けてみればいい。小さな明かりさえあれば、這い上がる道しるべになって
くれる。
逆にうまくいき過ぎるときには、そっと自分を戒めることです。
(PHP平成19年12月号)
あの(24時間マラソンのゴールの)テープは切りたくなかったの。
いちばんつらかったのは63キロ地点。プロデューサーが武道舘から飛んできて「すいません大将、飛ばして
くれます?そうすれば番組に間に合います」って言うんですよ。「飛ばしたい気持ちはありますけど、
飛ばないと思います」としか言えないの。
でも、あと4.2キロってところで、急に「あのー自分の走りをしてください。楽に走ってください」って
言うのよ。これはつらかたね。あんなに練習したのになぁって。
応援してくれてる人に申し訳なくて、急にハイタッチができなくなったの。でもね、それでも人がどんどん
来るわけ。何でこんな幸せな気分になれるんだろうっていう違う世界に入って行って、テレビとかゴールとか
どうでもいいって思っちゃった。
今度は「欽ちゃん、欽ちゃん!」って大合唱になって、そしたらこの人たちがゴールのテープ作ったって
思ったわけ。だから僕、武道舘の前で手をあげてたでしょ。そこがフィナーレだと思ったの。
それで武道舘入ったら、待っててくれたお客さんからまた欽ちゃんコールがあって、それが「欽ちゃん
やったよ、ありがとう」って聞こえてきたの。そしたらまた涙が止まらなくて、あの階段の上でもゴール
しちゃって。
「いかにだらしなくてふしだらで不健康な生活を送りながら、なぜか元気なじいさん」ってのを
目指してたの。ゴルフは健康にいいからって理由で50代でやめて、「60歳になったから、そろそろタバコを
増やさないとなぁ」って。66歳が口笛吹いて24時間走っちゃったってのをホントはやりたかったの。
僕の今回の美学としては1本の注射も打ちたくなかった。で、次の休憩所でもまた「打ったほうがいいですよ」
って言うから、「やかましい!」って、わりと怖い顔して言ったの。腹立ってたからアイシングもやめたわけ。
「痛いところに痛いのを乗せてどうするんだ。走るのはオレだ!」って怒ってた。
後半に(タバコを)5本ぐらい吸ったかな。シャキッと眠気を覚ますには抜群の力があったから、タバコの力を
ちょっと借りちゃった。その5本がうまくてね。24時間走ったあとも1本で5本分ぐらいうまいから、逆に量は
減ったの。
練習で一度、2キロ走ったら一発でセキとタンがなくなったのね。24時間を走る前日は歯茎が腫れて
痛かったのに、走ったら治っちゃた。
さすがにそれで人生が変わることはないんだけよね。ただね、自分の中に昔の欽ちゃんがいるってことを
確認できた。30代の夢多きころ、あれもやりたいこれもやりたいってころを思い出せた。「このまま野球
やってる場合じゃない」って思っちゃうかも。
(アサヒ芸能2007年9月6日号)
24時間マラソンの瞬間最高視聴率は43.9%(関東地区)。マラソン後タバコ量が半減。のどのひりつき、せき、 タンがほとんど消える。「(走ってたら)体からヤニが出てきてるんだって。以前は嫌いだった果物のおいしさ にも気づいたよ」体重は80キロから61キロに落ちる。本番まで10ヶ月で430kmの走り込み。歴代最高の練習量の 理由は「欽ちゃんかわいそう」という声を出させたくなかったから。「医者に相談したら、『まあ、死ぬこと はないでしょう』というからやることにしたの。痛々しく見られたくないら、走ってる最中はアイシングも しなかったし痛み止めも打たなかった。目をつぶりながら走ってたのは苦しいからじゃなくて、汗が目に 入って痛いから」後半は「欽ちゃんの芸能界フィナーレ行脚みたいになってた」「痛いでやめちゃダメ なんだよ。甘やかさないことで高齢者の体はよくなっていくんじゃない。もし若い人が、僕が電車で座って いるのを見たら『あなたが好きだから、ぜひ席を立ってください』と言ってほしいね。老人を甘やかしちゃ ダメなんです」(AERA 2007/09/03)
ラジオってリスナーとのキャッチボールなんですよ。どう番組を進めようかじゃなくて、一緒に高いレベルに上がっていく。
ダメっていうと、そっちに転がっていく。そういうインチキものが出てこないと、番組は拡がらないのよ。
みんないい大人になっちゃって、四角い箱から出よとしないけど、その枠を超えると面白くなっていく。
(20年前も)何も募集してないのに、勝手に『こういうコーナーはいかがですか?』と送ってきたり。
("いいもの"が見たくて、)みんな一生懸命ハガキを送ってきた。そういう転がり方をしたときが大当たり
するんだね。
チャリティとか、僕なんかができないよって最初は行ったんですよ。夜はウロウロどっか遊びに行ってるし、お金持っちゃ競馬場行ってたから、そんな立派な番組、できないって。それがこの番組(ラジオ・チャリティ・ミュージックソン)をやって更生したわけで。本当に十円玉、百円玉を握り締めて募金に来てくれるんだよ。本当にお金が温かくなってるの。で、そこに添えてくれる言葉に泣かされて。みんな無理しない範囲で、自分の幸せを少し分けるように、さりげなく参加してくれる。
生放送はやることがいっぱい。僕にしたら、24時間が4時間ぐりの感じでしたよ。自分の気持ちの動いたほうに走っていくのが一番だと思いますよ。そういう(募金した人の話を聞いて募金をしにくる)人たちの残していく言葉が輪になって、どんどん大きくなっていく。そのまん中にいて、メッセージを読んで、いい気分に浸っているのが一番いいと思います。(I am 1242 2007 December)
サッカーって45分+45分とやって、1点しか入らないから、退屈しちゃって、もう1台のテレビで別の番組を
見て、笛が鳴ったら振り返るような感じだったけどね。そうすると、だいたい倒された選手が大げさに
痛がってるところでさ、サッカーって、ああやって演技するところがイヤだよね。
どこの国が一番演技するか、ランキングを付けながら見てたんだけど、No.1はイタリアだったね。
オペラを生んだ国だけあって、みんあ大げさ。本当に痛いっていう演技を分かってないね。
日本代表は、演技をしない正々堂々とした戦いをしてたよ。
日本の試合を見ていて、茨城ゴールデンゴールズも見習わなきゃいけないと思ったもん。
(2006/07/20 東京スポーツ)
監督を始めてから、いろんな人に「バッティングのコツ」を聞いてるんだけど、元プロ選手の10人中8人は
「間とタイミング」って言うね。でも、`首位打者クラスの人は言うことが全然、違うんだよ。田尾さんなんか
は「長さが長いと飛ぶ」とか、ボクにはほとんど意味が分からない話だったもん。
若松さんは「腰かな」って。
反対に、石毛さんなんかは簡単。ひと言「球を見る」だもん。
篠塚さんにはボールが六角形に見えてるらしんだよ。「打つところが6面ある」って、はっきり
言ってたんだから。打球の方向と角度で、打つところが違うんだって。マシン相手に実際に打って
もらったけど、「センターフライ」ってリクエストすれば、センターフライ、「サードゴロ」って言えば、
サードゴロを打っちゃうんだよ
ピッチャーだって、専門家の話は面白いよ。ウチのピッチャーが、途中からカンカンいい当たりされるんで、
ヘッドコーチだった鹿取さんに「大丈夫なの?」って聞いたの。そうしたら「ダメ。スタミナが
切れちゃって、球威がなくなってるね」って言いながら代えないんだよ。なんでだと思う?「いい当たりが
正面に飛んでるうちはOK。打たれないピッチャーに代えて変なところに飛ぶ方が困る」だって。ピッチャーを
代えると「内野がピンチだと思って浮ついてエラーする」ってね。
鹿取さんはクセをすぐ見抜いちゃうの。相手ピッチャーが真っすぐ投げるか、変化球投げるかすぐ
分かっちゃうんだよ。ウチのバッターに相手のクセを全部、教えればいいと思うんだけど違うんだよ。
「スライダーだと思って打ちにいっても、まともに曲がってないから、教えない方が打てる」ってね。
監督やって何がいいって、こういう解説を聞きながら特等席で野球が見られるってこと。役得だね。
(鈴木ヘッドコーチが)ずっと出てなかった選手を代打で使うから「なんで?」って聞いたら「運が
たまってる」だって。だんだん、ボクに似てきちゃったみたいだね。
(2006/07/13 東京スポーツ)
ゴルフを一緒にやると本性が分かるなんていうけど、ホントだね。
ボクはお酒を飲まないから、番組の打ち上げっってやらなくって、代わりにコンペをやってたの。
仕事で一緒になったタレントさんは必ず誘ってたから、大抵の人と一回ぐらいはやってるはずだよ。
その中で、一番印象の残ってるのがさんまちゃん。間違いなく一番の"気の使い屋"だね。
さんまちゃんと始めて会ったのは「欽ドン!」のゲストに来た時。お互いに照れ屋だから、同じ部屋で
打ち合わせしてるのに、ちっとも目が合わないんだよ。
もう仕方ないから、目を合わせるのは本番だけにしようって話になったのを覚えてるよ。
関根も途中で「青木のマネ」なんてやってるけど、ゴルフに真剣だもん。プレー中は"人が好き"より
"ゴルフが好き"が出ちゃうんだろうね。
でもね、さんまちゃんとのゴルフは一回きり。あんなに人を喜ばそうと頑張られちゃったら申し訳なくてね。
「大好きだから二度と一緒に周らない」って言ってあるんだ。
仕事関係の人と何回も行くのはちょっとね…。相手のことが見えてくるってことは、こっちも見られてるって
ことでしょ。見るのはいいけど、見られるのはイヤなもんだよ。
特に寿を取るとね。若いころは周りに神経を使えるんだけど、だんだん、それができなくなってくるからね。
だから、ボクがパットするときは、気を使って静かにしてもらわなくていいの。
ボクだった静かにしてくれって人とはやりたくないもん。
(2006/07/06 東京スポーツ)
松井が手首を骨折、って聞いたら、みんな大変だって心配しただろうけど、ボクにはちっとも不運に
見えなかった。最初に思ったのは"これは結婚があるかもな?"だもん。運がそっちに行っちゃったんだな、
ぐらいにしか思わなかったよ。
神様が"野球とは別にすることがあるよ"って言ってるんだね。
松井は主役の人なんだよ。伝統があって、一番注目されるところでやった方が活躍するんだと思うよ。
反対に、一が重荷になっちゃう選手もいて、コントレラルだっけ。ヤンキースじゃ自信なさそうに
してたのに、ホワイトソックスに行ったら気持ち良く投げてるね。
主役が合う人には、主役をやらせなきゃダメだし、そうじゃない人に主役をやらせてもダメ。
これは生まれ持ったもので変えられないよ。
タレントなんか、まさにそう。関根っていうのは、野球でいうと2番とか、8番だといいけど、4番を
打たせると、全然自分が出せないんだよ。
柳葉なんかは4番だよね。主役だとキラキラしてるもん。こういうタイプって、ほとんど顔で
分かっちゃうから、打順は顔で決めればいいんだよ。
2番バッターは顔に苦労が見えるタイプがいいね。
3番になると、甘い二枚目で、絵になる顔じゃないとね。
4番の顔をしてるのは、清原、小久保、福留といるけど、一番は城島かな。
(2006/06/22 東京スポーツ)
去年のパ・リーグプレーオフで、バレンタイン監督が「福岡に行きましょう!」って叫んだのをみんな
覚えてるかな?ロッテはあれで勢いに乗って、福岡でソフトバンクをやっつけて、阪神との日本シリーズにも
勝って日本一まで行っちゃった。
日本に来て2〜3年なのに、バレンタイン監督って上手に日本語がしゃべれるよねえ。よっぽど勉強してるん
だろうね。そういう苦労が、優勝にたどり着く結果になったんだよ。
視聴率だってカッコいいだけじゃ上がらないんだ。そこに苦労とかつらいコトがあるから一気にガ〜ッて
いくんだよ。苦労の先には成功も見えるからね。
言葉には絶対、不思議な力っていうのかな、何かがあるんだよ。ゴールデンゴールズの試合で、すごく汚い
ヤジを言ってくるチームがあって「ああいうチームには負けないよ。絶対、勝ちはこっちに来るから、
お前たちは上品にしてなさい」ってベンチで言ってたの。
でも、試合中に本塁のクロスプレーがきっかけで乱闘みたいになった。そしたら相手のコーチか誰かが
「いい試合なんだからやめようよ」って、いいコト言うんだよ。
逆に、そのプレーの後、ウチの選手の言葉も乱暴になっちゃって…。結局、その試合は負けちゃったんだ。
言われっぱなしにしてれば、野球の神様が味方してくれたはずなんだけど、ああなったら、五分五分だもん。
運だけで勝とうと思ってたのにね。
勝負事に運は大事。その運をもってくるのが言葉なの。
できれば、日本代表のスタッフにお笑いの人を入れて、開幕前から訳の分からない日本語を教えておくのが、
良かったと思うよ。
(2006/06/15 東京スポーツ)
(サッカーでブラジルとの違い)何が違うかっていうと体に染み付いてるリズム。日本人にはやっぱり、演歌の
タメが体に入っちゃってる。サッカーの場合、タメてたら間に合わないからね。
これがブラジルあたりになるとラテン系のサンバのリズムで行っちゃうの。
野球には演歌がいいんだよ。イチローのバッティングなんて、まさに演歌だもん。
イチローの場合は、曲がってるのを見てから「曲がってるん、だも〜ん」の"だも〜ん"で打てるよ。
こういう変化球が打てる人はドラマに出ても大丈夫。セイフはタメが大事だからね。
時代劇なんてタメの連続だから、もっとイチロー向き。
サンバも演歌も必要なのが、実はコメディアンなんだよね。サンバのリズムでパンパパパンッと行って、
最後に演歌や歌舞伎のタメでドッカンと笑われるの。
「なんでそ〜なるの」もそのまんま言ってもダメなんだよ。文字にすると「なんでそ〜う〜んなるのっ」って
感じかな。この「う〜ん」ってタメがなかったら誰も笑わないよ。
ボクも、浅草で芸人になったころ、日舞と洋楽のダンスを練習されられたよ。当時はそんなこと
分からないから「なんで踊りなんかやらなきゃいけないんんだ」って思ってたけどね。
そういう意味でいうと、今、日本で一番本格派のコメディアンはSMAPだよ。
(2006/06/08 東京スポーツ)
【欽ちゃんジャンプ】55号は、とにかく動き周るのが売りだったね。僕も、舞台でまったくウケないときに
ポーンと飛んでみたの。そしたらバカウケ。ネタのオチがつかない場合は飛べばいいんだと。
【♪野球するなら〜】55号は下ネタとダジャレは禁止だったのね。二郎さん、公演の初日なんかだと、
とりあえず笑わそうと思って下ネタに走るから。「野球拳」は、ワースト番組のNo1って言われてた。
ゲストの女性歌手に納得させるのも大変。いつも「二郎さんはグーしか出さないから大丈夫」って説得して
たんだから。
【なんでそうなるの?】コメディアンの師匠に、「何から覚えたらいいのか」って聞いたら「それを教える
のに10年かかる」と。じゃあ、その10年は何したらいいのよって聞いたら、「とりあえず大きな声を
出しとけ」って。で、舞台であまりにもウケないんで「なんでそうなるの?」ってどなったの。あえて
アクセントつけて言ったらドカーンとウケた。僕みたいにツッコミって実はつまんない仕事なの。交通整理
みたいなものでさ。でも、これで初めてツッコミも笑いに参加できたって思えたね。
【欽ドン賞、決定!】もともとラジオでやってた番組だから皆に反対されたね。テレビでハガキ読むのって。
僕に言わせるとハガキを読むってのは舞台や映画じゃできない。じゃあテレビだって。最初は土曜の夜8時
からって言われたけど、それだと裏にドリフの「全員集合」がある。それには勝ち目ないから、ちょっと
早めて7時半からにしてって言ったら通っちゃった。7時半の「お笑い頭の体操」は終わらせたのね。
代わって出てきたのが「クイズダービー」で、逆にいい番組を作らせちゃったと。「バカウケ」」って
言葉は、もともと大橋巨泉さんが使ってたのね。それを「ヤヤウケ」「ドッチラケ」と発展させていった
わけ。
【良い子悪い子ふつうの子】「欽ドン」もずっとやってると(視聴率が)下がってくの。で、曜日も時間帯も
替えようよって言ったら、月曜の9時になったわけ。最初に「9時テレビ」って番組にしたんだけど、これが
大コケ。当時の局長だった日枝久さんが「10年は預ける」って言ってくれてね。その言葉を励みに「良い子
悪い子−」のコンセプトが浮かんだときは、ワクワクしたね。
【欽どこ】55号のころに、舞台でドタバタやってるのがテレビの画面を通すとおもしろくないって言われた
ことがあったの。それを思い出して、テレビの前の人と同じ目線の「茶の間」を舞台に、ずっと座ったまま
やってみようかって。あと、番組をマンネリ化させないためには新人だろうと。「わらべ」の3人とか、
どんどんうまくなっていって無事に卒業。ちっともうまくなんない見栄晴は残るとかね。
(週刊アサヒ芸能 6・8特大号)
馬券は、だいたい何番人気が来るって予想で買うんだよ。
とにかく狙ったのが来るまで、ずっと買い続けるから、かすみ網方式って呼んでるんだけど、これが結構
当たるんだよ。しかも予想がラクで仕事の邪魔にならない。
もう25年ぐらい前だけど、1年間に1600万円馬券を買って、1500万円取るっていうのが、3年続いてね。
馬券術としては完成かなと思って、その後は、馬券をあんまり代わなくなったな。
仕事が忙しくなって、なかなか競馬場に行けないっていうのもあたしね。それで、当時の中央競馬会の会長と
対談したときに、そんな話をしたら「電話投票ができたよ」って、すぐ手続きしてくれんだよ。
1日30万円までっていうのが、なんか親の監視付きで遊んでるような気分でね。
その前は、常に300万円持って競馬場に行ってたから、どうも物足りないっていうか、一発勝負って感じが
しないんだよ。
上着のポケットに300万円入れて、自信があるときは厚めに、このレースは自信ないなあと思ったら薄めに
取ってね。何枚あるかなんて数えないで、馬券を買ってたの。昔から「貯金が100万円になったら、全部持って
競馬に行こう」って夢があったんだけど、それを毎週やっちゃったんだよね。
当時、週末になると、競馬に行くために、銀行の担当者にお金を持ってきてもらってたんだけど、ある日、
その担当者が30万円しか持ってこなくてね。「300万円あれば、あそこに建設中のマンションの1DKの部屋が
買えます。将来、必ず何倍にもなるから考え直してください」だって。
その担当者も頑固で、そんなやり取りを毎週のように何度もしたよ。
(2006/06/01 東京スポーツ)
30年異常前、仕事でアフリカに行った時のこと。ライオンが見たいと思って、ずっと待っていたんだけど
3日たっても会えなかったの。
ライオンなんて、他の動物を食うばっかりで、食われないんだから、どんどん増えていっぱい
いるはずでしょ。「どうしてライオンがいないの?」って聞いてみたの。
そうしたら「親は食われないけど、ライオンの子供を専門に食ってるヤツがいる」って言うんだよ。
それを聞いて「どんなに強くても、弱点があるんだな」って気付いたんだ。弱いやつだって、
いつも弱いだけじゃないんだよ。
そう考えると、人間に食われっぱなしの牛とかニワトリって、絶対におかしいんだよ。
しかも、牧場とか養鶏場で、殺されるのを待ってるようなものなんだから。ニワトリのトサカなんて、
武器のはずなのに垂れてるんだもん。絶対怪しいよ。
人間が増えすぎたときに、何か悪さをして人間を倒すためにいるとしか思えない。
神様がそのために用意したのかもしれないね。
それで、焼き鳥が大好きだったのに、もうニワトリを食べないって決めたんだ。本当は卵も食べない方が
いいかと思ったんだけど、大抵の加工品には引ってるから、無理なんだよね。それで、おなかの中で親子で
会わせないように鶏肉を食べるのをやめたんだ。
牛は食べないわけじゃないんだけど、革靴を履いては絶対に食べない。だから、焼き肉屋さんも座敷が
ないところには行かないね。知らない土地に行ったときも、必ず座敷があるかどうか、事前に確認していから
行ってるよ。
このことは、当時出した本にも書いていたから、最近になって読者から「鳥インフルエンザのことを30年前に
書いていたあの本はすごい」って手紙が来たよ。
これ以外にも、ボクの予言は当たるって評判なんだよ。
例えば、阪神淡路大震災。いつ来るなんてことは分からないけど、そのうち関西で大きな地震がある気がする
ってずっと言ってたの。それで、大阪で止まりの仕事は絶対にイヤだって、やらなかったんだ。
ボクの場合、みんなが「ない」って言えば言うほど、あるような気がしてくるんだよね。
(2006/05/25 東京スポーツ)
二郎さんが復帰したとき「今、二郎さんが死んだら泣くね」って行ったの。
そうしたら「何言ってんの?」なんて言われちゃってさ。
あの人、ボクが死んだ時に葬儀委員長をやるつもりなんだよ。
あんな芸人らしい芸人は、ほとんどいないし、これからも、まず出てこないんじゃないかな。
芸人は、芸がうまいってのともう一つ、普段がないってのが必要。二郎さんは24時間芸人だからね。
しかも、忘年会用、結婚式用…って、いろんな芸を身につけてるから、舞台やテレビだけじゃなくたって
どこに行ったってばかウケだよ。
ボクはパーティーとかでしゃべるのが苦手だし、コメディアンとか、テレビ局のディレクターとか、
お笑いのプロの前で何かやるなんて絶対イヤなんだけど、二郎さんは逆。
55号で番組対抗とか、芸能人がたくさん集まる番組に出るときは全部、二郎さん頼み。
NHKの紅白歌合戦にゲストで出たときもそう。ボクなんか迷惑かけちゃいけないって思うから
何もできないのに。ただ、アドリブやって怒られるのはイヤだからね。「終わったらそのまま帰っていい
ですか?」って先に聞いておいて、二人ともアッという間に帰っちゃたよ。
(2006/05/18 東京スポーツ)
(全然お客さんのいない店に入ると)どんなラーメンが出てくるんだろうって、ドキドキするでしょ。
そういうスリルが好きなんだよね。
店の人が驚いちゃって『なんで来たの?』なんて言うんだよ。それで『タクシーでラーメンといえば、
ここだって聞いたよ』って言ったら『ウソだあ』だって。ラーメンを食べて『ウマイね』って言ったら、
やっぱり『ウソだあ』なんて言ってるの。売り物じゃない、おしんこなんかが出てきちゃってさ。
『これはウマイから』なんて持って来てくれるんだよ。そういうのが本当においしかったりするから
不思議だよね。
ラーメンにはちょっとこだわりがあって、普段はまう家でしか食べないんだ。こだわるのは、コショウ。
S&Bの『テーブルコショー』がないと絶対ダメだよ。ボクは、刺身はしょうゆ、うどんは唐辛子が
おいしいもんだと思ってるから。
納豆よりあの(ツーンとくる)辛子が好きなんだよ。今、納豆を買うと大抵付いてるちっちゃな辛子なんて、
ちっともツーンと込ないよ。捨てる手間を何とかしてほしいぐらいだよ。
ほかにも僕が好きなものって、のりとか、塩辛とか、食事の脇役が多いんだよね。
(2006/05/11 東京スポーツ)
コント55号のころは、よく小学生の女の子から手紙がきましたよ。「二郎さんをいじめないでください」
って。僕が二郎さんに体当りをしたり、ムチャクチャなことを言って困らせるもんだから、いじめてると
思うんだね。「欽ちゃんがいじめたから、あんなにバカになっちゃったんだ」なんて書いてあったなあ。
バカとボケは違うんだけどね。
コント55号のネタはほとんどがアドリブで、いつも行きあたりばったりでした。僕がその場でどんなにワケの
わからない要求をつきつけても、二郎さんは途方にくれながらも的確にボケを返すのよ。だから、さらに
そこを突っ込む。もう二郎さんを困らせたい一心ですよ。でも、あの人、笑いの職人ですからね、ちょっとや
そっとじゃ困らないの。今はいなくなりましたよ、ああいう人は。二郎さんは、芸でボケを演じた最後の
人じゃないかな。
70年代に入り、単独で活動するようになってからは、素人さんや素人同然のタレントに、ツッコミを入れて
笑いをとるということをやってきましたけどね、素人というのは、また違った意味の坂上二郎さんなの。
二郎さんみたいな人を探そうとすると、素人になっちゃう。10年選手は10年もやってきたことを見せないで、
素人のように自然にさりげなくやるんですね。
ところが、中途半端に5年とか6年とかお笑いをやっている人だと、それができないから、あんまり
おかしくない。さりげなくする、というところまでくるにはやっぱり10年以上修業が必要なんです。
だけど、この時代には、そんな芸人はもう一人もいない。だとすると、坂上二郎さんに一番近いのは、
「自然である」という点においては、素人ということになるわけです。
だから、お茶の間バラエティ番組の『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で、萩本家の長男役をやった見栄晴と
二郎さんは、ある意味いっしょでどっちもやりやすい。違いは、二郎さんは、突っ込まれたとき、
ごまかす、疲れたと言って同情を買うといった自分で道を拓く方法を持っているけど、見栄晴は道を
拓けない。通行止めならそこでバンザイしていますから、こっちが誘導してあげなきゃいけない。
ゲストの女優さんも、事前の打ち合わせはまったくなしで、何も知らされないで出てくるんです。
僕はそんな女優さんが、もともと持っているものを出そうとする。当時はまだ女優さんが、素の姿でテレビに
出ることを嫌がった時代ですから、よく出演してくれたなあと思いますよ。応援してくれる気持ちが
あったんだと思う。それがあの『欽どこ』という番組の幸せなところでしょうね。
幸せと言えばテレビを見た人たちが電話をかけてきてくれるの。お母さん役の順子さんのお腹が大きいと
「いつ生まれるんでしょうか?」とか「あんなにお腹が大きいところを見ると、一人じゃないでしょう」
とか。そんな声を受けて、お腹の子は、のぞみ、かなえ、たまえ、という三つ子になっちゃった。
今の時代、視聴者から番組あてに電話がくるといったら、苦情ばかりですよ。
あのころは、みんながテレビの萩本家を心配してくれたり、応援してくれたり、幸せな時代でしたね。
僕はなあにも育てちゃいないのよ。番組をやっているときは、自分のことで精一杯だから。『欽どこ』に
出ていた関根勤と小堺一機も、勝手にしろ、と放し飼い状態だったよ。最初に2人が出たときなんて、
お客さんがだれも笑わずシーンとしましてね、小堺は震えあがっちゃった。放し飼いというのは、教える
ひとつの方法なのね。何も言われず放ったらかされると、不安になって自分で何とかしようと努力する
でしょう。
はしのえみちゃんに、「どこで覚えたの?僕、教えた覚えないけど」と言ったことがある。えみも
「女の人には、まるで教えてくれなかった」って。だけど、えみは現場で僕がほかのヤツに「こうしなきゃ
ダメだろ」「それは違うよ」と言うのをよく聞いていて、どうしたらいいかをつかんでいったんだな。有名に
なった子というのは、みんなそうやって自分で勉強して、うまくなることのできた子たちだよ。
そもそも僕はね、コメディアンの弟子はとらないの。ほかのコメディアンがみなさん弟子をとっていたから、
真似したくないな、と思ったことがひとつ。あと、なんでコメディアンがコメディアン育てるの?と疑問を
持ったのね。だって、コメディアンを育てたって、抜かれるだけだもん。そんなもん育てるより、放送作家を
育てたほうがずっと自分のためになるじゃないか、と思って。
あのころ、ちょうどお金も入ってきたのよ。で、銀行の人にお金の増やし方を聞いたら、普通は不動産
買うか、証券買うか、預金をするかだ、と。じゃあその3つはとにかくやめよう。「土地なら10倍に
なりますよ」と言われたから、僕は人に投資して、20倍にしよう、と思った。土地は恩返ししないけど、人は
するもんね。それで、家に放送作家になる前の人間を、4人居候させることにしました。
使えそうじゃないやつを選んだ。漢字を知らない僕の辞書代わりに使えるように、なるべきなら大学出と
最初は思ったんだけど、考えてみたら大学卒業されると、僕よりお利口になっちゃうのね。僕が先生と
呼ばなきゃならなくなる。みんな早稲田とか日大とかに行ってたけど、中退しろ、って。中退なら僕と互角
だよ。それに中退したら、もう就職できないから作家になるしかないよ、みんなここで生きいってね。
早稲田なんか卒業しちゃったら、絶対作家になんてならないで、どこかいい会社に行っちゃうからね。
あいつら素直だったから、そうですか、ってみんな中退した。
それから5年間、本の書き方なんて何も教えないでおいておく。僕は作家じゃないんだから、書き方は
教えられない。教えたのは、麻雀と将棋くらい。給料はいっさいやらなかった。鮭を食べる時は、僕が身を
食べてあいつらには皮だけを食わす。ラーメンを頼んだときは、食べる前にみんなチャーシューを僕の
ところに持ってくる。「有名人の前ではチャーシューは食うな」って言ってあったから。
5年間痛めつける間に、運がつく魔法をかけたの。神様、5年もヒドイ目にあってるんだから、その分運を
つけてください。運はためておいて、勝負をけけるべきところで使うものなんだ。あっちもこっちも、うまく
いくってことはないですよ。僕もテレビをやっているころは、ギャンブルはしなかったし、お金が落ちて
いても拾わずに通り過ぎたもん。嫌いなヤツに教えて拾わせたりしてね。
最悪な5年を過ごしたとろで、「はい、今日から作家です。書き方はテレビ局のディレクターに教えて
もらいましょう」と独り立ちさせる。「こいつ新品です。何も知らないから教えがいあるよ」と
ディレクターに渡す。喜んで教えてくれますよ。使いやすいもん。絶対逆らわない、書き直しをいとわない、
自分を抑えながらみんなとうまく仕事をしていく術を身につけている。この仕事をしていくうえで、人と
気持ちよくつきあえるのは財産じゃないの?
うちに居候をさせはじめたころから、ものになるのはわかっていたのよ。シナリオ学科とか出てお勉強を
してきた作家はテレビ局にはいっぱいいるでしょ。でも、コメディアンといっしょに過ごして、
コメディアンが何をほしがっているかが、わかっている作家はどこにもいない。ほかに「いない」と
いうことは、必ず「何かになれる」ということなんです。その確信は最初からありましたよ。「ほかにない」
ということが、一番のおもしろさなの。
(1985年はの休養宣言は)番組を「やめた」というより「終えた」という感じでした。当時はドラマ全盛期、
その夜9時台に、お笑い番組をぶつけて視聴率30%をとりたい、という目標を持ってやっていたんだけど、
3つの番組がすべて30%を超えたとき、ああ、終わった、と、思ったのね。達成感がありましたよ。でも、
次だ、というふにはならなかった。今度は何を狙うの?40%は現実的ではないだろう。このまま30%を続けよう
とするのも気が進まなかった。維持するために生きるのはイヤだよ。
自分のスピードで入るから心地よいのであって、人のスピードに合わせたり、うしろからパトカーに
追いかけられたりするのは、気持ち悪いでしょう。他人のスピードを見ながら走ると、いろいろな感情が
でてくる。ここで抜こうとか、引き離そうとか、あの感情が人生を辛くするのよ。100%なんて
偶然だもん。
僕は小学校4年のときに親父のやっていた会社が倒産してから16年間、すごい貧乏暮らしを経験したのね。
借金取りから行方をくらましながらのその日暮らし。その後コント55号で売れて、それからの16年間は
テレビにいっぱい出ていい思いをさせてもらった。チャラだ。そう思ったのよ。これ以上続けたら、
ダメだ、自分だけトクするっていうのはよくないよ。
楽しかった、いい人生だった、と満足して、全部やめちゃった。そのうち次のおもしろいものに、
巡り合うんだろうな、なにか挑戦するものないのかな。そう思いながら、あぐらをかいて、毎日家でジーッと
していた。あんまり長い間、次のものに出逢わないから、このままボーッとしてうるちに人生終わるのか
なあ、そろそろ見つかるはずなんだけどなあ。そう思い初めたころに、野球に辿り着いた。驚いたね、
辿り着くまでに20年もかかってるんだもの。
イチローには触発された。シアトルまで見に行った。アメリカで勇敢に闘っているのを見て、オレ、テレビ
見てる場合じゃないと思った。僕はボンズのホームランを見たい場面で敬遠しない野球をやりたいと思った。
勝ち負けよりも、お客さんを楽しませることに徹した野球。実現するためには自分が監督にならないと。
試合の采配はさっぱりだけど、演出ならバッチリだよって。野球の演出って、これまでだれもやって
いないんだよ。僕は、大勢でスタートラインに並ぶと負けるタイプなんだけど、だれもやってないことだと
すっごい元気が出る。
64歳っていう年齢はいいなあ。何をやっても、親にも先生にも怒られない。突飛なことをやっても、ルール
違反をやっても、大目に見てくれる。人生の中で一番いいときに、最高にワクワクできることに辿り着いた
という気がしてるの。
(2006/05/07 婦人公論 2006年5月22日号)
ゴルフをうまくなってやろうって思ったきっかけは、30年前キャディーさんに「欽ちゃん、
テレビはうまいけど、ゴルフは下手ね」と言われたこと。いつもラフとか林の中に入れて
一緒に回ってる人やキャディーさんにボールを探してもらっていた。それで、ドライバーを
摩っすぐフェアウエーに打って、周りに迷惑かけないようにと思って、アシスタントプロに
教わるようになった。週に1回、練習場で教えてもらって、月に2回ラウンド。
「周りに探してもらったら2打罰」という特別ルールでよくやった。
ハンディー12になれたのは、ジャンボ尾崎さんにバンカーショットを教えてもらったのも大きかった。
ジャンボさんが「もっとフェースを開け」って言うの。僕が「そんなことしたらどこ行くか分からないから
イヤだ」って言ったら「ウルサイ!」って怒られちゃってさ。
それで仕方なく言う通りにしたら、川奈の難しいバンカーから30cmに寄っちゃったんだよ。
ボクの得意クラブはドライバーとSWなんだ。ティーショットは飛ばないけど、だいたいフェアウエー。
スコアはパーとボギーだけで、ダブルボギーはめったに打たなかった。
この間、ゴールデンゴールズのコンペで久々にラウンドしたら、52、52の104だった。
(2006/05/04 東京スポーツ)
マネジャーに「日劇の女優に手を出すと、二度とこの舞台に上がれなくなるから」って言われてね。
舞台や稽古場に女性がいても、話し掛けなくなったの。
有名になるのは、素直な子なんだよ。「これをやってみたら」って誘ってくれるのは、こっちの方が向いてると思ってくれてるからだし、そっちに行った方が絶対、運もあると思うよ。
信念を貫いて、それで突っ走っていけるのは本当に才能があるヤツだけ。運がない方に行って
成功しちゃうんだから。
司会なんか向いてないと思ってたし、コント55号だって二郎さんに誘われなければ、
やってなかったもん。
自分でやろうと思って始めたわけじゃないから、スパスパ止められちゃうんだけどね。
(東京スポーツ 2006/04/27)
700万円の馬(アンバラスモア)が3億円も稼いでくれて…映画で何億円も損した時だったから、
ホントに(前川清に)誘ってくれて良かったよ。
ボクの馬主歴は30年以上。最初は大井に馬を持って、その後、中央の馬主になったんだ。
中央で2頭目に持ったパリアッチがダービー(1977年)に出ちゃったの。
馬の名前ってみんな長いから、短く3文字にしてるんだ。
3文字だと覚えやすいし、叫びやすい。ダービーとか大きなレースだとファンが、勝った馬の名前を
叫ぶでしょ。あれって、3文字でまとめてるんだよね。(2006/04/20 東京スポーツ)
なんだかズルしてるみたいでコネって嫌いなんだよね。
それで、関根にはコネだけじゃなく苦労もしてもらおうってことで、番組に出るまでの1年間、
稽古で"ボクの役"をやるっているつらい仕事をさせちゃったんだ。
ボクはね、テレビでも、舞台でも、リハーサルには自分が出ていかないの。
誰かにボクの代わりをやってもらって、それを客席の方から見てんだ。
台本はみんな持ってるけど、ボクの突っ込みが入ったやつは、ボクの頭の中だけにあればいいの。
台本通りにやるためじゃなく、アドリブのための稽古なんだから。
関根が有名になってから「1年もあんなことやらせて悪かったな」って謝ったんだ。そしたら
「今のボクがあるのは、あそこで勉強さえてもらったからです」だって。
「ボクには師匠がいないから、あそこで修業させてもらいました」ってね。
テレビで活躍するには、そういう性格の良さも大事なんだ。プロデューサーとか、共演者に
気に入られるって、絶対に得なことなんだからね。
(スターになるのは)テレビの世界でってことなら、コネがあって、性格がいいヤツなんじゃないかな。
(2006/04/13 東京スポーツ)
(欽ちゃん走りは)小堺が「欽ちゃんの物まね」って言って、テレビでやってるのを見て始めたの。
きっと、それらしき動きをしてたんだろうけど、自分では気付いてなかったよ。
それで、アイツがウソになっちゃいけないと思って、ボクもやり始めたの。
欽ちゃん走りの発明者は小堺なんだ。(2006/04/06 東京スポーツ)
きちんとしたセリフを言うなんてことはもっとも苦手で、「コント55号」でも、二度と同じことが
できなかったんですから。
お客さんはそれ(ノックのでの空振り)を待ってるようで、「やっぱりやってくれた」ってんで
ウケるんですよね。だけど、本人は空振りしようなんて思ってませんよ。ノックのために3日間
訓練したんですから。
おもしろいですよ。知らないままやってるっていうのは。選手に聞いちゃいますもんね。
「なんで打てないの?」「ピッチャーつらそうだけど、代えてほしいの?」って。
打たれそうだなってカンが働くと、ベンチから出てっちゃう。だから、僕の中では、うちのチームまだ
ホームラン1本も打たれてないんです。
これが選手を嫌いにならない方法なの。
(汚いヤジも)禁止です。「このバッター、打つんでございますよ」「このピッチャー、いいんで
ございますよ」って、そう言えって言ってあるんだけど、みんな黙っちゃう。
野球ってちょっと間があるでしょう。ランナーが出てないと、お客さんがマイクを欲しがりますよね。
ランナーが出ると、マイクが邪魔になるんです。だから野球がちょっとつまんないなと思ったときに、
しゃべるという感じですかね。僕の野球って、スポーツ部門じゃなくて、バラエティー部門ですからね。
劇場やスタジオみたいにみんながこちらを向いてるラクな環境じゃないので、笑いとしては非常に
やりづらいけど、笑わせがいがありますよ。
勝ちと負けしかないときはスポーツなんですね。それ以外がバラエティー部門ですよね。それとドラマ部門。
野球って物語ですからね。
もっと野球をにぎやかにしたい、ということで始めたんで、その気持ちはかなり満足しました。
(持ち出した金額は)確かに億近くいきましたね。
なげうつつもりでやったんです。土地売って資金つくって。そしたら、僕の収入はゼロでしたけど、
皆さんにちゃんと払うべきものは払えたし、借金とか赤字ということはなかったですね。むしろちょこっと
黒字になって、僕、その分だけそーっともらっちゃおうかなって、いま悩んでるんですけどね。
お金もないのに(チームを)持つっていうムチャな話を夢というんで、お金で買っても夢じゃないんですよね。
僕らの場合、今は野球と町おこしが一緒になって、町の人が野球を通してはしゃいでるという状態ですね。
(球場の改修について)「お金出す」と言ったら、「戻ってこないから、よせ」って、みんなが止めるもん
ですからね、グッっとこらえたんですよ。そしたら、つくば市のほうで「球場を新しくするから、来ないか」
って言うんで、そうか、直すんじゃなくて、球場があるところに移動すればいいんだってことに
気づきまして。稲敷市には申し訳ないんですけど、同じ茨城県内ですし。あんまり遠くへ行っちゃうと
失礼になりますからね。
球場を新しく直すための予算を見たら、イス席一つ10万円って買いてあるんですよ。市の方が「1億ぐらい
かけたかったんですが、予算が取れなくて5千万なんです。すいません」って言うから、「5千万はすいません
じゃない。多すぎます。アマチュアが使う球場にそんな大金をかけるのは最もよくない。木のイスでいい」
って言ったんです。木は大根と同じ値段だっていうもんですから。
ところが、木は危険だからダメという規則があって、もうその先は規則、規則。僕の手に
負えなくなっちゃった。
(1980年代は)僕が、というより、みんなテレビが好きだったんじゃないですかね。たまたまその中で
やってたのが僕ということで、今は、テレビが嫌いになっちゃった人が少し増えてきたんじゃ
ないですか。
あの時代、笑いというのがまだあまり認知されてなくて、笑いをやってる番組も、笑いをやってる人数も
少なかったから、僕、得だったんですよ。
「実は奥さんと子供がいます」と公表することって、当時の芸能界の通例では、「終わっった」ってこと
でしたからね。
スケジュールも白紙にして、コマーシャルも契約を切って、「芸能界よ、さようなら」という、覚悟の
さよなら会見だったんですけど。そしたらみんあ「なんでさよならなの?」って。あのときの喜びが
30%3個をつくったんだと思いますよ。「欽ちゃん芸能界に置いといてよかった」と思ってほしい。
それが力になりましたね。
(姿を消した相手を捜し出した)自分で持っているものにしがみつくと、勇気ってなくなるんで、
芸能界をやまめれば何叫んだっていいんだと思って、やめる覚悟で叫んだんです。
その方にはお世話になりましたんで、何かお返ししなきゃならないと思って、「何でもおっしゃって
ください。お金も少々あります」「お金はいらない」「何があると幸せなんですか?」「うーん、子供」
って。だから恩返しのつもりで急いでつくりました。そしたら、「じゃ、さよなら」って。子供が生まれたか
どうかも、どこにいるかもわからない。そのうち「生まれたから、名前つけて」って電話があって、名前を
つけて。
奥さんに言わせると、お母さんと二人でごはん食べながらNHKのニュースを見てたら、「欽ちゃん、結婚」
って出てるんで、ああ、結婚したんだと思ったら、自分の名前が出てきたんでびっくりしたって。
芸能界で生活している僕みたいな人と一緒にいると、気を使わなきゃならないからわずらわしい、
そういう生活はあんまり好きじゃない人ですね。
(浅草の日劇の)支配人が「そういう問題を起こすと、ここに出られなくなっちゃうからね」って。
口きいたり好きになったりしちゃいけないって、若いころから厳しく言われてたから、訓練されちゃった
みたい。「惚れた」って部分を、どこかに置いてきちゃった感じ。
長男は、「大学出たら銀行に勤めたい」と僕に相談してきたので、「そんなまじめに働いてどうする。
だれもやらないことをやれ」と言ってやめさせたんです。大学に行ったことを無駄にしてるようなヤツが
僕、大好きなんで。そう言ったら、素直な子でね。今、朝4時に起きてお弁当屋さんで働いてます。
僕、ほんとは子供をオリンピック選手にしたかったんです。そのために山のてっぺんに家を建てて、
と思ってたんですけど、小学校に行くようになって、山のてっぺんの家に帰ってきた子供が、
玄関でバッタリ倒れて、「なんでこんな家に住むんだ!」と叫んで、僕のオリンピックは終わったんです。
笑いでいくら視聴率をとっても30%なんです。オリンピックに行く人って100%っていう気がしません?
(坂上二郎さんと会うことは)ほとんどないです。約束してますから。仲が悪くなるから、プライベートでは
口きかないって。
有名人って雲の上の人って感じがあって、緊張しちゃうんです。
長くご一緒した真屋順子さんともそうです。女優さんに「食事でも行きましょうか」って、その言葉すら
怪しげで。
女優さんにそういう言葉をかけるのはたいへん失礼なことっていう教育を受けてますら。順子さんとは
9年間一緒でしたけど、番組が終わって、打ち上げパーティーに出かけるときにテレビ局が用意してくれた
ハイヤーに2人で乗ったら、順子さんが「お父さんと2人になるの、初めてですね」って。「ああ、
そうですねえ」「どうもありがとうございました」「とんでもない。ずいぶんご迷惑をかけたでしょう」
「いえいえ」って。
(2006/03/24 週刊朝日)
脳硬塞で倒れた坂上二郎さんに「車いすでも出てよ」 (2006/03/06 朝日新聞)
欽ドンではじめてハガキを見たとき、僕なんかよりも「進んでる」と思った。若い子たちに「時代」、
「新しさ」を教えられた。ラジオの投稿者はおかしいことを「考える」「一緒に作る」ことを喜びと
していた。テレビの場合はおかしいことを「楽しみたい」と考えている。テレビに届くハガキの数は
ラジオよりも二桁多いんだけど、どこかで聞いてきたようなネタがすごく混じってた。
テレビになるとき、ラジオで「絶対に観るように!」って言ったら、最初の放送でとんでもない視聴率が
出たの。ラジオの付き合いは「ウソもの」じゃないんだね。テレビはいろんな人がいて何かを伝えようと
思ってもなかなか定まらない。ラジオは「想い」がひとつに定まる。
「欽ドン!良い子悪い子普通の子」はラジオの「欽ちゃんのここからトコトン!」から生まれたもんだし、
「欽ちゃんのどこまでやるの!?」はラジオに届くハガキから構想した設定なの。ラジオの収録の帰り道は、
テレビのアイデアでいっぱいだったなぁ。テレビに持ってったら「欽ちゃん、俺たちのネタをテレビで
やってるよ」という風に喜んでくた。
テレビは苦情の電話が殺到するけど、ラジオは何をやっても文句言われなかった。「新しい」ことを
探すとき、僕はラジオから、子どもたちのハガキから「時代をとってくる」わけ。言ってみれば「萩本欽一」
という放送局であり中継局だったんです。(2005/12/20 Quick Japan vol.63)
「テレビでダメっていわれたら、粗しいと思えばいいの。ひとりでも『うーん、やってみよう』 という人にぶち当たれば発明なんです」「ここまではマイクが届かないだろうと、客席にも飛び込んだ。 ルール違反がテレビを開花させた。」「コント55号イコールドツキと、張り倒しと、蹴飛ばす、 走るですから。今、二郎さんドツくと死にますから。」「年寄りって大切にしちゃダメだよ。 ひどいとこは多いに笑ってあげて、それを押し返すほどの言葉なり、行動なりがあって、始めてお年寄りの 存在があるんじゃにかな」「人間への投資はいつまでも心に残る。人間への投資は倒産がない。」 「昔はね、修業してからテレビ出ろって言われた。今は時代が違う。『テレビに出て有名になったら、 実力がつく』って言ってるの。」「SMAPなんてまさにそう。あの有名な中で努力して、 どんどんうまくなっている。」(2005/12/09 夕刊フジ)
(コント55号DVD発売について)「出てこないのをいいことに、『昔のネタは面白かったんだぞ、 お客さんは鼻血出して笑い転げてた』と吹いてたのに。伝説のままにしといてくれよって」 「そろそろ、お客さんの方が気を使うコントがあってもい。」「55号が解散するもんか。面白いとか、 面白くないとかじゃなくて、二郎さんとは、どっちかは死ぬまで55号をやっていこう、 という精神でいるんです」(2005/11/20 サンケイスポーツ)
「(コント55号の)方法論も何もない、行き当たりばったり。二郎さんは器用で何でもできる。
だから、二郎さんがでいないことを探すのが一つのパターン。もう一つは不条理の世界。
例えば、たこ焼き屋なら『たこ焼き温度を歌ってから食べてくれ』とか訳の分からないことを言う。
すると、二郎さんが途方に暮れる。ただ坂上二郎を困らせたいというだけ。ポリシーなんてあやしない。」
「僕は生放送のCMで19回もNGを出して、『来るな』と言われた。台本なしに好きなことを言える浅草に帰り、
『机』をやったら、いきなり『日劇に出ないか』と言われた。その後、2年ほどで作ったネタが30本ぐらい。
その中に『帽子屋』があり、見る人が『55号って本当におかしい』と思ってくれるようになった。
「当時は舞台にマイクが1本しかなくて、2メートル離れると声も入らない。でも、2メートル以内でやったら
『面白くない』と言われる。怒られるのを覚悟で動き回っていたが、ある時、舞台上にマイクをたくさん
追いて撮ってくれた。『動いていい』と思えた時はうれしかった。」
「素手で舞台に上がり、二人のぶつかり合いを見せたことが誇り。設定を考えるのは自分、
中身を考えるのは二郎さん。五分五分だから、二郎さんがネタをどう消化するか、舞台に出るのが
楽しみだった。二郎さんは何か失敗したら、次の日も初めて失敗したように演じられる。芸でボケを演じた
最後の人じゃないか。」(2005/10/28 読売新聞朝刊)
「今一番日本ですぐれたコメディアンはSMAPですよ。彼らは踊りから入っているでしょ。」 「おまじないをするとき、ぼくは運を考える。睡眠が足りない人は運がないから。」 欽ちゃん球団 茨城ゴールデンゴールズ オフィシャルファンブック
「人間、寝ないと運も落とすし、大切なものも失う」 (見栄晴について)「お父さんを早くに泣くしている。じゃ、お父さんが使って ない運をこの子は使うだろう。」(小堺一機と関根勤の欽どこ起用について) 「僕が他の事務所のタレントばっかり使ってガッカリしている社長を見て、こ れは面倒見なくちゃなぁと思って…」「お笑いの人でも女性でもできる野球が あるよって伝えたい。」(2005/04/09 夕刊フジ)
(チラシの裏に書かれた母親の日記に)「あるとき"ごめんね、欽一…。お前は頑張っていたんだね"って
書いてあったの。うれしくて泣いちゃった。でも、泣きながら読んでいたら、その続きに
『豚肉100グラム、コショウ少々、塩少々…』って。」
(長野オリンピックの閉会式を見た母が)「来場されていた天皇皇后両陛下と一緒のテレビ画面に、
ボクが映ったの。そのとき初めて"ああ、欽一は胸を張って行きているんだ"って認めてくれた。」
(入院中の母が自分の名前を呼ぶのを聞き)「だから、かあちゃんのためにも頑張ろうって思えるの。
昔、仕事がきつくて辞めちゃいたいって思ったことがあったのね。でもその時、(母の)悲しむ
顔が頭をよぎって、あーだめだ、辞められないって思った。」
(下積み時代に)「テレビを観ても顔がまったく映っていなかったの。こっちは必死なのに、
もうガッカリしちゃった。だからボクは新人芸人を出したとき、ひたむきなヤツはでっかいアップを
撮ってあげる。自分が味わったガッカリ気分にさせたくないからね。」
(2005年3月25日 サンケイスポーツ 真実の口)